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【W受験生の母】49歳、やっと見つけた生きるための目標

はじめまして!春からW受験生(高3の娘&中3の息子)を抱える49歳、nannanです。

2024年秋、子どもたちのW受験を目前に控え、扶養範囲内で働いていた私は、うっかり103万円の壁を突破。結果、追加税の徴収と扶養手当がなくなり年間で18万円を減額されるハメに……。
これをきっかけに、今後の働き方を本気で見直しました。

そして2025年1月、「WEBマーケターになって月収30万円を目指しちゃえ!」と決意し、本気で挑戦をスタート。

このブログでは、50歳を迎えるまでの1年間
そして子どもたちの進路が決まるまでの1年間
“お母さんも本気を出せばやれる!” を証明するべく奮闘する日々を綴っていきます。

私の人生も気づけば50年。振り返ると、意外と私って変人!?
そんな私の挑戦を、“どこまでやれるか” 見守っていただけると嬉しいです!

基本情報

名前:nannan
1975年12月28日生まれ (O型)
職業:パート兼、ハンドメイド作家、たまにデザイン業
好きな食べ物:バウムクーヘン
趣味:何かを作る(DIY、手芸)息子のサッカー応援
家族構成:夫、高2の娘、中2の息子、愛犬(アメリカンコッカースパニエル)
好きなアーティスト:UNICORN、INI
好きなもの:ディズニー、劇団四季

苦労を知らないゆるゆる子ども時代

3人兄弟の末っ子。兵庫県姫路市で生まれる。
小さいころから高身長で大人びて見られるものの、
内面は超こわがり&泣き虫。幼稚で引っ込み思案な性格でした。
父は工務店を経営、寡黙で職人気質な仕事一筋のザ、職人。
母はそんな父を支えながら、新聞配達やパートを掛け持ちし、
今でいう”ワンオペ”で3人の子どもを育てるパワフルなお母さん。

「お金は使うために稼ぐ」これが、母から教わったお金の価値観

1991年のバブル崩壊までは、それなりに裕福な家庭環境でのんびりと過ごしていました。

小学生時代:漫画と編集オタク

小学校時代は「最年少で漫画家になる」と意気込み、お小遣いやお年玉はすべて漫画代に。とにかく読みまくり、描きまくり、小説も書いてクラスメイトの注目を浴びていました。
しかし、どれも未完成のまま放置
最年少デビューの夢は、気づけば”妄想”のまま終了……。

そんな中、小学高学年でハマったのがビデオ編集。録画した番組をVHSデッキ2台で編集し、CMカットして1本にまとめるのが楽しくて仕方なかった。
今の人、わかる? VHSって。ビデオって??(笑)

中学生時代:バスケと勉強と、永遠の二番手

中学ではバスケ部に入部。今では完全アウトな体罰指導も当たり前だった時代。
過酷な練習を耐え抜いた3年間は、今思えば”精神的タフさ”を育ててくれた気がする。
とはいえ、せっかくの高身長も活かせず、努力も苦手。
シュート練習はほどほど、技術もほどほど。たまに”奇跡のプレー”を発動するけれど、結局はレギュラー一歩手前の”永遠の二番手”ポジションでした。
勉強はというと、塾には通わず学校の授業だけで内申点をキープ。
高校は地元では公立進学校に、滑り止めなしで合格!

受験失敗からの運命の出会いをした学生時代

ぬるま湯の高校生活、推し活三昧。

成績は右肩下がり、それでも気にせず、今でいう推し活三昧。高校野球やバンドにハマり、お笑いの追っかけに夢中。フットワーク軽く楽しんだ高校時代だった。

高2から美大受験のために画塾へ。
今思えば、すごい高額な塾代を払ってもらっていたと痛感する……。
しかし、バブル崩壊後で家計は厳しく、私立美大はNG。
滑り止めの私大には受かったものの、本命の国公立美大には一歩届かず、不合格。
浪人は自分には向いていないと、あっさり夢を諦め、「美容専門学校」へ進学。

美容師時代:絶望の手荒れと挫折

幼い頃から人形の髪をいじるのが好きだった私は、意外と美容の道に向いていた。
器用なのは、きっと両親のDNA。
たった一年の専門学生時代に今後の運命を変えるのサークルに入会。
サークルで他大学の学生とも交流し、遊びを一気に学びました!

美容専門学校は1年で卒業し、インターンとして美容室へ就職。
しかし、そこはスタッフ10人以上の大きな店舗で、私はひたすらシャンプー担当に。
毎日20〜30人のシャンプーをこなすうちに、元々弱かった皮膚は限界に。
肘から指先まで薬剤でボロボロ、あかぎれ&手荒れで絶望的な状態に……。

結局、美容師の道は1年で断念。

デザイン系専門学校:サークル沼にハマる

美容師をあきらめ、当初目指していたデザイン系の専門学校へ。
学生に戻りボランティアリーダーとして、学校そっちのけでサークル活動に没頭。
同級生たちとチーム運営を経験するものの、熱量の差にもどかしさを感じる日々でした。

やりすぎて体を壊し、気管支喘息気味で血を吐くことも……。
客観的に見れば、完全にやりすぎ注意人物!(笑)

でも、このサークルを通じて、キャンプ・釣り・スキーなどの遊びを一気に学び、
人生の大切な人たちと出会う。

夫とも、現在仕事の相方となった親友とも、すべてこの場所が始まりでした。

転々とした下積み時代とショップ運営のはじまり

デザイン系の専門学校を卒業し、実家から通える範囲で就職。
大型インクジェットプリンターを扱うデザイン事務所で、看板制作などを学びました。
しかし、歴も浅く営業力のない会社だったため、仕事は少なく、暇を持て余す日々……。
やりがいを求めて、その会社の先輩と独立!

そしてこの頃、運命の出会い—— 犬を飼い始めました!
この愛犬たちとの出会いが、後のショップ運営へとつながっていくことになります。

独立したものの、仕事は思ったように軌道に乗らず、やっぱり暇……。
そこで時間を活用して独学でホームページ制作を学び、愛犬のサイトを作ってみた。
すると、そのホームページが雑誌に掲載され、その犬種界隈でちょっとした有名人に!
さらに、オリジナルグッズを制作・販売し、2002年5月にショップを立ち上げました。

一方、デザインの仕事の方は、独立時の勢いが続かず1年で退社。

過酷すぎるデザイン会社勤務

次に入社したのは、立ち上げ間もないデザイン会社。
社長兼デザイナーのワンマン経営だったが、入社1ヶ月で社長は営業専念へ。
結果、デザイナーは 私1人だけ。
社長が取ってきた仕事がすべて私に振られるという、完全ブラックな環境に。
PCモニターの端には、ぎっしりと貼られた付箋。
毎晩、日付が変わるまで黙々と仕事をこなし、家には寝るためだけに帰る日々……。

そんなとき、愛犬の父犬のブリーダーさんが廃業。
父犬を引き取り、2匹の愛犬との暮らしが始まりました。
実家暮らしで両親のサポートがあったからこそできたこと。
平日は仕事漬け、週末は犬とお出かけやキャンプが唯一の楽しみでした。

やがて後輩が入社するも、次々と辞めていき……。
後輩育成もしながらの激務で、私は 1年で完全に疲弊。
「もうすぐ結婚を考えている」という言い訳をして退職しました。

結婚までの1年、アルバイトとして不動産専門のデザイン会社に勤務。
間取り図の作成や、不動産広告の基本を学びました。

一方、“何でも自分でやりたい”精神は健在!
アメリカンコッカースパニエルという 手入れ必須な犬種 のために、
犬種限定のトリミングを学習。
さらに、結婚式では ペーパーアイテムをすべて自作!

やりきった結婚式を経て、 2003年11月、結婚。
京都へ引っ越し、在宅フリーランスの道が始まりました——。

母になり、どんどん狭くなる自分の世界

結婚後、「愛犬とアジリティがしたい!」と思い、しつけ教室に通いはじめました。
同時に、 2匹の愛犬との暮らしを考え、賃貸からマイホーム購入を意識するように。
ネットで鬼検索し、 中古住宅をDIYでリフォームして夢を叶えた人 を発見!「これだ!」と思い、暇さえあれば 理想の家のイメージ図を描く日々 を過ごしていました。
そして 2006年4月、築24年の中古住宅を購入。
本業の父の力を借りながら、壁を塗り、DIYで理想のマイホームへと改造しました。
引っ越し後も、何年もかけて少しずつ手を加え、理想に近づけていきました。

仕事の方は、 独身時代からのご縁でいただくグラフィックデザインの仕事 に加え、
求人広告代理店のオペレーター登録 し、FAXで受けた原稿をメールで納品するというスタイルで、細々と続けていました。

そんな中、2007年10月に第一子を出産。
はじめての育児に四苦八苦しながら、
当時流行っていた mixiでママ友づきあい もスタート。
でも、もともとコミュ障な私にとって、ママ友との関係はなかなか難しいもの でした。
第二子を出産し、娘が幼稚園に入園したころ、ママ友との関係がこじれ、軽いうつ状態に。

今でこそ「私はコミュ障」と認識して、人間関係に気をつけるようになりましたが、
当時は感情のまま。

毎日子育ての中で出てくる感情は「イライラ」と「怒り」ばかり。

今、高校2年生になった娘は、
「当時のことがトラウマになるくらい、お母さんが怖かった」
と言っています。

仕事復帰と、少しずつ取り戻した自分

息子が1歳になったころ、 今も続けているパート先 から声をかけてもらい、
WEBショップ運営のサポートとして仕事を始めることになりました。

最初は 2時間程度の短時間勤務 からの復帰。
それでも、 「自分が必要とされている場所がある」 と感じ、
ほんの少しだけ 自分の居場所を取り戻せた気がしました。

育児だけでは 自分をコントロールできなかった、情緒不安定な私。
子どもたちには申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、
「不完全なママでごめんね……」

ハマるととことん!子育てしながら熱中したこと10選

動画編集にハマった子育て期

こうしてまとめてみると、 子育て期は完全に動画編集にのめり込んでいました。
一円にもならない趣味なのに、
子どもたちの喜ぶ顔、恩師への感謝の気持ちを形にしたい!
その一心で、 曲選びから構成まで0.1秒単位でタイミングを計算。
ピタッとハマったときの快感や、完成したときの達成感のために、ひたすら作業していました。

ただ、 のめり込みすぎる性格が裏目に……。
気づけば家事はおろそかに。

ダメな母親でした。

……なんて思うけど、
「好きなことに夢中になる姿を見せる」のも、きっと悪くなかったはず!

上書きしなくなった、引き算だけの人生

迷いながら進んできた10年間

子育て期にハマった趣味と並行して、 私は新しい学びも始めていました。
きっかけは、娘が小学生になったころ。
犬のしつけでお世話になった先生から、「自然療法」の存在を知り、興味を持ったのです。
「やってみたい!」と思ったら、すぐ行動。
でも、すぐに結果が出るほど簡単ではなく、気づけば ずっと学び続けている状態

素直にアドバイスを聞いて実践するタイプなら、
もっと早く身についていたのかもしれません。
でも、私は
「まずは自己流でやってみる」→「うまくいかない」→「また自己流で試す」
を繰り返し……。
気づけば、同じような失敗を何度も繰り返していました。

目指す方向を見ているつもりが、 実は全然違う方向へ進んでいた のかもしれません。
それなのに、「自分は正しい」と思い込み、やり方を変えられない。

…… これって、結構ヤバくない?

立ち止まるきっかけになった出来事

そんな迷いの中で生きていた 40代前半。
育児に追われ、やりたくて始めたはずの自然療法に悩み、
私自身が本当にやりたいことが何なのか見失って生きていた10年間。
昔の不摂生が祟って、私は40代前半で更年期障害の症状が出始めていました。
大量の不正出血が数ヶ月続き、数歩歩くだけで息切れ。
病院で検査すると、 重度の貧血。

そして、 「生と死」 を考えさせられる出来事が次々と起こりました。

・ご近所のパパの自殺
・姉のガン発覚
・娘の恩師がガンで他界
・娘の同級生の自殺
・夫の人間ドックで悪性腫瘍が見つかり、手術

どれも、「死」と直結する出来事。

まるで、神様が私に必死で 「気づけ!」 と言っているようでした。
でも、私はずっと気づかないまま、目の前のことに追われ続けていたのです。

私は、何をやり遂げたんだろう?

昔、働き詰めでイライラしていた母を見て、私はこう思っていました。

「パートで疲弊している母のようにはなりたくない。」

でも、今の私はどうだろう?
気づけば 自分も、あの頃の母と同じような生き方をしている。

しかも、 「職業=お母さん」を軽視していないか?
お母さんすら満足にできていないのに、
「もっと別の何かにならなきゃ」と焦っている自分。

一生懸命働いて、何不自由なく育ててくれた母に対して、
「母みたいにはなりたくない」なんて、私はどれだけ失礼だったんだろう。

もしかして、 私には思いやりとか、人間力が足りないんじゃないか?

「何者かになりたい」自分に疲れた

「本当にやりたいことって、何?」
「私の自慢できることって何?」

でも、今の私は 何もない。
それなのに、人と比べては 「もっとできる自分にならなきゃ」 と思い続けている。
この10年間で、何か一つでも 「やり遂げた!」 と思えることがあっただろうか?

…… 何もない。

あれ? こうして振り返ってみると、 49年間生きてきて、私は何をやり遂げたんだろう?

「これよりはマシ」
「誰かと比べたらマシ」
「仕方ない、こういうもんだ」

そんなふうに、引き算しながら生きてきたような気がします。

向上心なんて、どこにもない。
ただ、毎日同じことを繰り返し、ぼーっと過ごしていました。

スキルの向上なんて、するはずもない。

103万円の壁を超えて見直した、これからのキャリア

「10年も学び続けてきたのに、何ひとつ身についていない。」
そう気づいたとき、ようやく私は 「自分は何もできない」 という現実を認めました。
だからこそ、 「一から学び直そう」 と思ったのです。

めそめそ泣き虫で体は大きいのに自信なさげだった娘。
寡黙で、自分が体験したことしかできない、自閉症グレーゾーンの息子。

そんな子どもたちも、 自然療法を取り入れたおかげで大きく変わりました。

今では、娘は 自分だけの色使いを活かし、芸術の道へ
息子はまだ口数は少ないけれど、 サッカーでFWを任されるまでに成長。

彼らは 自分の進む道を、懸命にもがきながら歩き始めています。

そして気づけば、高校2年生と中学2年生。
母の手を離れていく日も、もうすぐそこ。

「いよいよ来年、W受験生になる。」

そう思ったとき、私は自分の働き方を見直さざるを得ない状況になっていました。

これまで、 年収103万円の壁を超えないようにパートで働いていた私。
母の教えの通りお金を使うために稼ぎ、貯金もないのが現実。
いざ子どもたちが 「私学へ進学したい」 となると、経済的にかなり厳しい……。

かつて私が親に言われたように、 「私学はNG」 と言わなければならない状況でした。

そんな中で迎えた 2024年秋。
「うっかり103万円の壁を超えてしまい、年収18万円減額」
という出来事が起こりました。
そこで初めて、「このままじゃダメだ。働き方を変えるタイミングかもしれない。」と考えたのです。

しかし、今のパートで収入を上げるには限界があります。
そんなとき、「まだ40代、ギリギリ間に合う!学校に行き直すか、大きな会社で修行しなさい。」というアドバイスを受けました。

何気なく始めたネット検索。そこで「あるスクール」を知りました。

アルゴリズムに導かれた転機

スクールを知ったきっかけは SNS運用。

実は、 私は20年以上、WEBショップを運営してきました。
愛犬のために作ったオリジナルグッズを販売し、趣味の延長で続けていた小さなショップ。

でも、時代とともに ネットショップの仕組みも大きく変わり、SNSの活用が欠かせない時代に。

「このままではダメだ、SNS運用をちゃんと学ばないと!」

そう思って情報を探していたとき、 あるスクール を知りました。

とはいえ、すぐに決断できたわけではなく、悩むこと数ヶ月。
でも、 アルゴリズムってすごいですね。

検索すればするほど、 そのスクールが猛アピールしてくる。口コミを比較しながら、
「物は試しだ。まずは説明会に参加してみよう!」 と思い立ちました。

そして迎えた 2024年11月1日、オンライン説明会の日。
この日は 私の結婚記念日でもありました。

「この日に始めるならキリがいい!ここを人生の転機にしよう!」

そう決意し、 入会を決断しました。

スクールで学び始めて驚いたのは、
教えられるマインドが、これまで恩師に言われてきたことばかりだったこと。
でも、ここで ようやく気づきました。

私は、 「器がない状態」 で学んできたのだ。
せっかくの教えを受けても、 ザルのように取りこぼしていたんだ。

でも、幸いこのスクールでは 動画で何度も繰り返し学べる環境がある!
さらに「Camp」という企画で、日報・チームMTGを通じて基礎スキルを丁寧に学べる場 もありました。

どんなに興味を持っても 三日坊主になりがちな私が、今も日報を継続しているのです。
それだけで、もうすでに自分の中で 「今までと違う」 と感じています。

自分の未来を変えるための「投資」

そして2024年12月。
入会して1ヶ月が経った頃、 「WEBマーケティング」 というコースの案内がありました。

募集は年に一度きり、来年あるかは未定。
期間限定で 10ヶ月間、集中して学ぶコース。
カリキュラムを見た瞬間、 「これだ!」 と思いました。

・WordPress
・SEO
・YouTube
・TikTok

どれも私が学びたいと思っていたものばかり。

これまで 独学で身につけた中途半端なスキルを、しっかり学び直せるかもしれない!
そう思い、即決で受講を申し込みました。

しかし、受講料は自分の貯金だけでは足りません。
そこで夫に頼み込み、家の貯金を借りることに。もちろん期限付き。すべては1年後。

・W受験を迎える子どもたちのため
・受講料の借金返済のため
・50歳の誕生日を迎える私のため

これまで 「何も目標を持たず、やり遂げたことがなかった」 私。
でも、 こんなに条件が揃っているなら、もうやるしかない!!!!!!!

1年後、私はどこまで成長できるのか?

今の私も、 「WEBマーケティングって何?」 の状態で、まだふわふわしています。
フリーランスとして活動してきたつもりでしたが、 スキルは20年前で止まったまま。

でも、 時代遅れの「自称デザイナー」が本気を出したら、どこまで成長できるのか?

自己卑下していた自分に サヨナラ。

最強・最高の講師陣について行き、 素直に行動すれば、人は変われる。
そして、 「人は、いくつになっても成長できる」 を証明するブログにしていきます。

まずはWEBマーケターになって、月収30万円を目指す!

1年後の私が、どこまで進化できるのか。今はまだ、ワクワクしています。
具体的にどんな風なステップを歩んでいくのかはこれから綴っていきます。
ぜひこの挑戦を見守っていただけると嬉しいです!